それがわたしのつみ
058:いつになったらこっちを見てくれるの、と懇願する眼が忘れられない
人ごみにまぎれて慶介は指定場所へ急いだ。相手は借りを作るにはリスクの在りすぎる人物である上に繁華街に呼び出されたことがこれからの不穏さを暗示している。精一杯化粧した少女や少年、関わりを避けたくなるような青年や久しぶりに遠出をしているといった風情の老婦人など繁華街は案外密談の穴場だ。小さな虫の羽音のように人々はそれぞれ好き勝手なことを話し、その声や音が雑音という天然の密室を作る。その場にいるほぼ全ての人たちが自分たちが放つ声や音にしか耳を傾けない。慶介はいつも通りの白いシャツに洗いざらしのジーンズと動きやすい格好で来ている。着飾るほど服飾に興味はない。興味がないので自然と相手に不快感を与えなければそれでいいかと必要最低限だ。代わりに風呂などにはわりあいこまめに入る。人を不快にさせるなりは臭うものや内から発せられるものだと思っているから身なりを取り繕うより体を磨いている。
「ケイ、こっちだ」
やられた。人ごみの流れを読みつつも慣れない場所であるから手間取った。待ち合わせの相手がチェシャ猫のようににやにやと慶介を待っていた。それでも慶介の表情は毛ほども動かない。動揺や焦りはこの九条を愉しませるだけだと経験で知っている。人いきれから飛び出すと他にも人待ち顔の男女が並ぶそこへはじきだされる。目を灼くような紅の上下に碧のタイをしてシャツは鋭いカナリア色である。人目を引きながらも遠巻きにされる格好である。現に九条の周りだけ人口密度が若干低い。
「案外時間かかったな。なンかしてた?」
「報告書の作成です。あなたの分も作っていました」
とげとげしい厭味にさえ九条はこたえない。へぇーそりゃありがたいねェこれからもよろしくゥ、などと笑い飛ばされる。
「ところで、用事がある、とは」
九条も慶介も丈があるから人ごみで話す分には困らない。まして九条の服装が虫除けになっているから多少は会話も聞き取りやすい。
油断がなかったとは言えない。気付いたのは黒髪を鷲掴まれた後で認識した時にはすでに唇が重なっていた。
「こういう用事」
あっさりと九条が離れていく。わずかの間でもそれを心地よく思ってしまった自分を呪いながら慶介は眉をひそめた。
「でしたら帰ります」
「じゃあクリスちゃんにご出張願おうか」
慶介の黒曜石が見開かれて集束する。クリスは慶介を主と定めた<守護士>だ。二人の間の絆は深いものであり肉体関係の脆弱さを慶介は知った。慶介はクリスの裸さえ見たことはない。慶介がまだ十五歳であるということを考え合せたクリスの対応もあったろう。そのクリスに何をさせるか、どちらにしろ決めたら九条は躊躇しない。完膚なきまでに忠実に細密に実行に移す。慶介の拳が知らずに握りしめられてぎりりと鳴った。
「…あなたは、卑怯だ」
「ケイが相手してくれンなら呼ばない。俺は実のところ性別なんて脆弱なモンにはこだわらないからな。気持ちよけりゃあそれでいい。心が通じ合うってェなァいいねェ」
どうする? と九条が携帯電話を取り出す。慶介はそれを奪うと九条の隠しへねじ込んだ。これが答えだ。九条は満足げに笑うと先に立って歩き出す。
「どこへ」
「衆人環視のセックスはさすがに悪趣味だからな」
こうして慶介を作りあげている建前や見てくれは崩されていく。毀されると判っているのに慶介は九条を明確に退けられない。クリスを巻き込みたくない気持ちはもちろんあるが、才木慶介と言う少年を九条と言う男がどんな手段で毀すのか見てみたくもあった。慶介は年頃にありがちな自壊衝動を秘めている。自分の体や能力を酷使して限界まで使い切る。大人の監視の目が届かぬ場所で暴力沙汰を起こしたこともある。九条にだけは何故かばれて散々自分の弱さを露呈させられた。同時に浅薄ささえも指摘されて九条はある意味で慶介を徹底的に否定して壊した。
「お前さ、こういうことになっても驚かなくなったな。前はどきっとかしてたのにつまんないねェ」
「回数を重ねれば学習します」
「それ、すげぇ蓮っ葉みたいだぜ。たった十五で経験語るなんて甘いンだよ」
パンと頬を張られた。明らかに手加減されており、慶介の妙に白い肌がほんのり紅を帯びる程度だ。それでもそれが慶介の気をくじく。赦されるなら泣きたい気分だ。九条はいつも慶介が慶介なりに作りあげたものをあっさり壊す。あれが駄目だといわれて改善したつもりになっても今度はあちらが駄目だこちらも良くないと散々に言われる。だから慶介は九条に絶対服従しているのだ。所属団体の中で年長であり統べる位置に九条がいる所為もあるだろう。振り向きざまの一撃だったから慶介の方に構えがなかった。口の中で頬裏の肉を食んでそこがずきずきと痛みだした。もっと強く殴られていたら噛みちぎって裂傷を負っていただろう。
九条は人ごみの波を上手く渡りながら裏へ裏へと入っていく。華々しい繁華街の路地裏は暴力や詐欺やそう言ったもろもろの悪しき慣習がまかり通っている。全てが自己責任であり賠償も謝罪もそこには存在しない。紙幣は紙くずであり書面の有効性もない。あるのは口約束と肉体の交歓だけだ。それはつながることであったり薬物投与であったりした。違法がまかり通り行き場を失くした弾かれ者があたりに座り込んでいる。屑籠をあさることさえここでは誰も咎めない。
「さぁ、ケイ。上等な寝床がお前を待ってるぜ」
男同士でも接客係は何も言わない。詮索もしない。それでいて客の顔を覚えるすべに長けている。慶介は何度か逃れるように顔を伏せた。九条の方は顔見知りであるかのように軽口をたたきながら接客係と話している。九条が用意した寝床は案外清潔で真白な寝台がそこにあった。敷布も枕さえも用意されていてなかなか上等だ。路地裏の中では正統で高級な、部類に入るだろう。
「なんて言って欲しい。愛でも囁いてほしいか」
「いりません。だいたいにして団長がみているものは団長自身です」
それは慶介の中でずっとくすぶっていた思いだった。九条は交歓の最中でさえ慶介を見ていない。九条がみている、のは――
「自分自身しか見えない奴と寝る気はない」
ばき、と硬質な音がした。咄嗟のことで慶介の防御を果たせなかった手が中空で彷徨う。九条の拳が慶介の白い頬を殴りつけた。頬骨から響く振動で脳まで揺れたように感じられる。それが悪酔いを引き起こして吐き気を感じる。それでも慶介は吐き気を堪えるように唇を噛んだ。首から下げる指輪がシャランと鳴った。この指輪は慶介が選ばれた<王>である証だ。常に身につけている。能力を使う際の媒体であるから必要なのだ。
「ずいぶん気取ったこと言うじゃあないの。数値や波状グラフしか知らないガキに機微を諭される謂われはないけどなぁ」
「あなたはそれを承知の上で自分を選んだのではないですか。不愉快であれば即刻解消します」
慶介は退かない。引いていたら九条は嵩にかかってくる。慶介の強気は自己防御の過敏な表れでもある。
「あなたはいつだって自分など見ていない。誰か、自分の知らない誰かを見ている。…――抱かれていればそのくらいは、判ります」
俯けた慶介の睫毛が涙に濡れた。男にしては長い睫毛だと揶揄される。手入れをしないからカールしたように上向いてはいないがその分慎ましさを醸し出す。慶介の手が握る拳がぶるぶる震える。
「自分は、自分を見てくれない相手と何度も枕を交わせるほど、度量は深くない――!」
ねェお願いだから。
自分を見てください。
あなたが抱いているのは自分なんです。
誰を見てるのどうして見てるの。
自分じゃ、だめなの――
「ケイ、ごめんな」
ぎゅう、と九条の上が慶介を抱擁した。拒絶したばかりだというのに慶介の胎内で熱が流動的に動き出す。九条に向かって放たれるのを待つかのように慶介の熱は九条へ向かって触手を伸ばす。抱きしめられた腕との接触面から熱が流れるような気がした。染髪もしていない黒髪をかきまわし、その体を抱きしめてくれる九条の腕。十五歳という歳のわりに速い成長期で育った体躯。触れる箇所から熱が溢れほとばしる。
「でもケイの嫉妬も可愛いな。そんなに俺が好きかい」
くすくすと笑って九条は冗談にしてしまう。それが慶介の救いでもある。
「十五なんて昨今じゃあ立派なオトナなのにな。お前はまだまだ可愛いぜ? もっともっと俺のこと考えてくれよ」
ぎゅう、と九条が冗談めかして締めあげるように抱きしめる。慶介は苦しいと言いながらそれがずっと続けばいいのにと思っている自分に気付いていた。
「好きだぜ、ケイ」
それこそが慶介がずっと欲しかったもの。
「ありがとうございます」
瞬くたびに涙がこぼれそうになるのを堪えた。声が震えなかったのは奇跡だ。慶介の体は慶介が思うよりずっと脆弱な連動性であった。慶介の内部は泣き喚くように混乱をきたしているのに、体の方は涙一つこぼさない。
九条の抱擁は長かった。慶介は黙ってその抱擁を受け続けた。このまま絞殺されても良かった。それでも九条の体が静まったままだ。九条の目はまだ他の誰かを見ている。その誰かは慶介には判らない。旧い知合いなのか新しい知己なのかさえ判らない。それでも九条をここまで縛りつけるそん座に興味は湧いた。
だれを、みている――?
涙に塗れた黒曜石の双眸がきらりと光りを帯びて煌めいた。九条は気づいていない。慶介は灼かれるような思いで抱擁を受け続けた。それが最善の策であると知っているからだ。もっともっと中枢に食い込んで調べなければ。慶介が瞬くと目縁の涙があふれた。殴られて紅く腫れた頬を統べる涙は温く、体温と同化した。
《了》